生産設備の一部は他工場に移転し,第二の人生を送ることになったが,最新の自動造形機を始め,砂処理,溶解炉等多くの機械は廃却となった.
取引先に図面を返却すると,手元に谷山榮介の工場指導書が残った.捨てるは一瞬,貴重な文書と思い,保管することとした.
谷山榮介は日本鋳物協会(日本鋳造工学会の前身)発足時[1932(昭和7年)]の評議員だった.
協会創立当時の役員名簿を見ると,石川登喜治はじめ日本産業界や金属技術者の著名な人物が名を連ねている.
指導書の整理を進めると,当時最新技術のダクタイルの記載がされていることに気がついた.
本指導書は金属の基本から始まり鋳鉄,銅合金,軽合金鋳物,鋳物砂,有機化学まで巾広く, 従来の専門書にない具体的な配合,図の記述などがあり,当時国家を上げて鋳造技術向上に相当な力を注いでいることが判明した.
現在でも適正配合を確立するのに相当時間がかかるものと考え,現場で苦労している多くの皆様の役に立てれば幸いと思った.
産業技術総合研究所の岡根利光が「現在の技術データの原典は1950年頃」と書いた文*)に目が止まり,相談したことで,今回の公開に至る.
*)出典:岡根利光;鋳造工学編集後記,Vol.88,No.2(2016),pp.138.指導書は1948(昭和23年)から5年間,3社に指導を行ったもので,谷山先生が手書きし,3部のカーボンコピーを作った.講義をした場所は,中目黒の小林工場である. 原稿本体はすでになく,今回,カーボンコピー1部が発見された.70年を経過しているため,色の薄いもの,変色しているものなど,読みにくい文書も多い.
「先般あるデータをまとめるために,引用されている図面の出典を辿っていき,原典の確認をしました. もしかしたらさらに古い出典があったのかもしれませんが,方案の解説図など,1950年代に出版された本からの引用が孫引きされているものが比較的多くありました.歴史を語るには甚だ勉強不足なのですが,戦争が終わり,それまで蓄積された技術が整理公開された時期なのでしょうか.次々と新技術・改良技術が現れる昨今ですが,このような本の散逸を防ぐなど,オリジナルの精神を辿って確認できるようにしておくことも大事だと思います.(後略)」
海軍の技術書はかなり廃棄されており,当時の技術を知る上で貴重な情報である.
メンバー
指導を受けた工場は,後藤合金,森島工場,小林工場(のち小林鋳造,コバチュウ)の3社である.
後藤合金と森島工場は共に大田区蒲田に工場があり,海軍の指定工場という関係である.また,森島工場と小林工場は親戚関係である.
当時,森島工場在籍で谷山講義を受けたのは小林弥之助(小林4兄弟の長男,のちに小林鋳造社長)である.後年,日本綜合鋳物センター(現,素形材センター)で発行 した「鋳物の品質管理」で銅合金鋳鋳物の主査をした.弥之助は筆者の伯父で,今回発見したのは彼の保管していた指導書である.
また小林工場所属で,講義を受けたのは小林節次(小林4兄弟の次男)である.日本鋳造工学会銅合金部会の委員として活躍した.
後藤合金所属で,講義を受けたのは後藤正夫(創業社長 後藤潤五の長男)である.
コンテンツ
指導書は,木炭被覆による溶湯の酸化防止を始め,800ページほどあり, 古い表現の文字,また一部専門用語を英語で使用しているが,
専門家の皆様は判読可能と思う.
以下にその一部を紹介する.
1. 押湯の付け方
2. 脱酸と熔剤(Deoxidizer and Flex)
3. マンガン青銅製高速推進機の侵蝕について
4. 夏の湯は何故沸かないか
エピソード
筆者の知る谷山先生は自宅が逗子であること.指導の合間に,当時2-3歳の長兄を抱いて,満員の横須賀線にゆられて走水海岸*に海水浴へ行ったことがあると聞いている.
*走水海岸(はしりみず);横須賀海軍工廠のほど近く
小林工場の沿革
・1871(明治4年)に芝赤羽(現在の東京タワー近隣)*1)に工作機械の国産化を目的に工部省が赤羽工作分局*2)(のち海軍造兵廠)を開設した.
芝赤羽在住で,人力車夫であった椎橋善太郎(筆者の祖母の兄)が,そこで機械部品用の銅合金鋳物製造法を習得.
独立して港区芝白金三光町に,鋳造工場を創業した.
*1)赤羽町は1967(昭和42年),住居表示変更により三田一丁目になった.・その後,親戚筋で鋳造工場の開設が始まり,港区を中心に7軒となった.
*2)赤羽工作分局は,1883(明治19年) 海軍省へ移管. 参考文献:中江秀雄著;大砲からみた幕末・明治,法政大学出版局,(2016),pp.136-138.
・1945(昭和20年)に,小林4兄弟(弥之助,節次)がそれぞれの工場を統合し小林工場(小林鋳造)として,北里研究所の隣(芝白金三光町)で創業した.
・1948(昭和23〜43年)発展にともない工場が狭くなり,裕天寺裏の中目黒に移転.昭和23年,谷山先生の講義は中目黒の工場で始まった.
・1968(昭和43〜平成15年) さらに神奈川県座間に移転した.